終戦の日に思うこと

昭和15年暮れ、長野県塩尻市生まれの父と、山形県宮内町生まれの母は、結婚し、新婚旅行に善光寺を訪れ、写真撮影した。

父27歳、母19歳だった。

父は全国各地に工場のある繊維会社の山形工場に赴任したばかり。

母は女学校を卒業し、事務職員として働いていた。

生糸の原料となる蚕の繭を繰る女工さんも大勢いた。

母の話しでは、沢山の人の前であいさつする父は、女子の憧れの的で、どんな人と結婚するのかしら、と皆でうわさしていたと言う。

「それが、私が選ばれたのよー!!」とうれしそうに話してくれた母を懐かしく思い出す。

戦争末期の昭和20年、父に召集令状がきた。父は富山に駐屯した。

母は生まれたばかりの乳のみ子(私の兄)と一緒に、信州坂城(さかき)の、父の親友の留守宅に疎開した。お世話になった家は小説家、幸田文さんのご実家だった。

父は日本の外の戦場にかり出されることもなく終戦を迎えた。父が帰ってきたとき、母はすごく、すごくうれしかったと話していた。

父は私に、”お父さんは人を一人も殺さなかったんだよ”といつも言っていた。

又、この戦争は負けるかもしれない、と上官と話した、とも言っていた。

父は口数が少なく、多くを語らなかったが、今の私だったら、もっといろいろ話しを聞くことができたかも知れない、と残念に思う。

父はそれから、熊谷、松井田へ工場長として赴任し、松井田で私が生まれた。

父の死後、私の同級生のお姉さまのピアノリサイタルで松井田に行ったとき、松井田町の町長さんが”お父さまの部下でした”とご挨拶下さって嬉しかったり、先々月に夫と宇治茶の生産地和束町に行ったとき、松井田小中学校の先輩、溝尾さんにお目にかかり、父の会社、東邦製絲(株)or碓氷製絲(株)がまだ残っていることを知り(世界遺産、富岡製糸場とは規模も違うだろうが)、感慨深かったり、小学校時代に工場見学で先生や同級生と父の説明を聞き誇らしかったことや、松井田の正月に毎年沢山の人が我が家にみえて、大宴会したりしたことなど、私の記憶に残っていることを今、書いた。

昨日は戦後79年の終戦の日だった。

でも、世界では戦争が終わることがない。

私に出来ることはなんなのだろう。

一生懸命考えていきたい。

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