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「お琴を弾くミホコ」
『お琴を弾くミホコ(父 撮影 松井田町の自宅で)』 ・・・・・ 夫が育った福井県の吉川小学校では、講堂兼体育館で映画を見たと言う。 私の生まれた群馬県松井田町には、 松映館(しょうえいかん)と文化劇場という二つの映画館があった。 松映館は昔ながらのチャンバラ・時代劇専門、文化劇場は石原裕次郎や小林旭など、若者が 見る”今どき映画館”だった。 二つの映画館では一度も外国映画は上映されなかった。 洋画をみたのは汽車で一時間の高崎の女子高に入ってからだったし、またその後は進学した東京でだった。 子供の頃、文化劇場で初めてみた文芸映画は、鰐淵晴子主演の「ノンちゃん雲に乗る」(石井桃子作、新東宝制作)。 それも、たったひとりで。 昔は平和だったなあ。 入れ換えもなかったし、私の胸をギュッと深くとらえたので何度も観た。 夕方、心配した母が迎えに来た。 子供心に、高い空の上の雲に乗ったノンちゃんは夢のようにステキだった。 習い事のお琴はやめ、空飛ぶ絨毯に乗って広い世界だけを駆け巡りたかったものだ。
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娘と母
私は泣いていた。 涙がとまらなかった。 その日、女子美大のアトリエで、年下の友達に 進士さん、どうしたのですか と聞かれた。 “娘がカナダに行っちゃったの、 ・・ずっと帰って来ない気がして。” 中央林間の駅で淡々と別れた娘。 好きな人がいるカナダへ出掛けた娘。 それから私は絵に打ち込んだ。 懸命に描いた。 ずっと昔の私・・・。 私の結婚式の前々日、上京する私のため 高崎駅まで見送りに来てくれた母。 列車が動き出しても私は胸が一杯で何も言えなかった。 お母さん、長い間お世話になりました、今まで ありがとうございました。と、眼で言うしかなかった。 前日も三つ指ついては無理だった。 私は、列車のドア越しに じっと母をみつめてた。 いつまでも手を振っていた母。 母の気持ちが、今はよくわかる。 写真は昨年夏、カナダから遊びに来た娘夫婦と孫3人を、私たち夫婦が明治神宮を案内した帰り。 近くの歩道橋から月を眺めて。 夫は中国旅行より帰宅したのが夜中でしたが、娘一家のため、一生懸命解説してくれました。
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終戦の日に思うこと
昭和15年暮れ、長野県塩尻市生まれの父と、山形県宮内町生まれの母は、結婚し、新婚旅行に善光寺を訪れ、写真撮影した。 父27歳、母19歳だった。 父は全国各地に工場のある繊維会社の山形工場に赴任したばかり。 母は女学校を卒業し、事務職員として働いていた。 生糸の原料となる蚕の繭を繰る女工さんも大勢いた。 母の話しでは、沢山の人の前であいさつする父は、女子の憧れの的で、どんな人と結婚するのかしら、と皆でうわさしていたと言う。 「それが、私が選ばれたのよー!!」とうれしそうに話してくれた母を懐かしく思い出す。 戦争末期の昭和20年、父に召集令状がきた。父は富山に駐屯した。 母は生まれたばかりの乳のみ子(私の兄)と一緒に、信州坂城(さかき)の、父の親友の留守宅に疎開した。お世話になった家は小説家、幸田文さんのご実家だった。 父は日本の外の戦場にかり出されることもなく終戦を迎えた。父が帰ってきたとき、母はすごく、すごくうれしかったと話していた。 父は私に、”お父さんは人を一人も殺さなかったんだよ”といつも言っていた。 又、この戦争は負けるかもしれない、と上官と話した、とも言っていた。 父は口数が少なく、多くを語らなかったが、今の私だったら、もっといろいろ話しを聞くことができたかも知れない、と残念に思う。 父はそれから、熊谷、松井田へ工場長として赴任し、松井田で私が生まれた。 父の死後、私の同級生のお姉さまのピアノリサイタルで松井田に行ったとき、松井田町の町長さんが”お父さまの部下でした”とご挨拶下さって嬉しかったり、先々月に夫と宇治茶の生産地和束町に行ったとき、松井田小中学校の先輩、溝尾さんにお目にかかり、父の会社、東邦製絲(株)or碓氷製絲(株)がまだ残っていることを知り(世界遺産、富岡製糸場とは規模も違うだろうが)、感慨深かったり、小学校時代に工場見学で先生や同級生と父の説明を聞き誇らしかったことや、松井田の正月に毎年沢山の人が我が家にみえて、大宴会したりしたことなど、私の記憶に残っていることを今、書いた。 昨日は戦後79年の終戦の日だった。 でも、世界では戦争が終わることがない。 私に出来ることはなんなのだろう。 一生懸命考えていきたい。
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「美保子、弟と”ろくぼく”に上る」
写真:美保子、弟と”ろくぼく”に上る。松井田小学校で。(父、撮影) 夏休みのある日、私は、一人、松井田小学校の助木(ろくぼく)のテッペンにいた。 真っ青な空、私が大きなヒトになったようで、上から見たときの心地よさ。 息をつくのも惜しいぐらい、解放感があった。 そんなとき、私をさがしにきた叔母の声が下から聞こえた。 叔母は我が家に居候していた母の妹で、独身、美しい人だった。 ミホコちゃーん。 今日は鰻をとるからね。 梅干しを食べてはいけませんよ。 ハーイ!!と私。 私の家の台所の物入れ、開く木のドアの内側に絵入りの”たべあわせ厳禁”が貼ってあった。 いつも見ていたので”鰻に梅干し、命にかかわる”は知っていた。 ろくぼくを下りて、自宅前の不動寺のお山へ。 一人で山を駆けめぐって遊んだ。 帰りに不動寺に寄り、同級生がいたので、お寺にある古ーい梅干しを大きな龜(カメ)から出してもらって、一粒ごちそうになった。 あの梅干し、今思い出しても甘酸っぱくて、シワシワで、なめればなめるほど、ほんとにホントに美味しかった。 家に帰り、母に”梅干し食べた”と言うと、じゃあ鰻は食べられませんよ、と言われた。 鰻重を美味しそうに食べる家族を横目に私は人生の絶望感なるものを初めて味合った。 あの悔しさ、悲しさ、少しぐらいなら大丈夫よ、と母に言ってもらえたらどんなに嬉しかったか。 それからこの年になるまで、どんなに機会があってもうなぎを食べることができなくなった。 昔、上京した父が新橋にうなぎ食べに行こうと誘ってくれたときも、娘たちと店の暖簾の前で別れて一人時間をつぶしたり、福井の永平寺町長さんに頂いた九頭竜川産特大鰻も眺めるだけで頂くことができませんでした。 昨7月24日は「土用丑の日」。 今も心に残っている、鰻への私の複雑な気持ちを思い出してしまいました。
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不良主婦 Mihoko ダウンす!!
“不良主婦 Mihoko ダウンす!!” 夫の 福井県政策参与退任記念講演が終了。県庁での片付けも終わる。新刊著書の発行も済み、やっと一段落。 神奈川への引っ越し荷造り、ようやく手伝ってもらえると思ったのに夫、38度越えの熱が出てしまった。と思ったら、今度は私まで熱。 ふたりとも風邪で寝込んだのは、コロナよりずっと前のカナダで、以来だ。いつも夜中まで起きて、好きなようにいろいろやっていた不良主婦の私だが、おとなしくベッドで休む。面白いぐらい寝た。 今日、4月3日(水)私、平熱になった。起きてテレビを観る。台湾の皆さん大丈夫だろうか。頭、ボーッとしてる。声を出すと苦しい、ガラガラだ。 夫はとても良くなりました。私ももうすぐでーす。お世話になった方々へのお礼は後程。(写真は小学生のミホコ、睨み利いてます。)
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「ある展覧会のために」
「ある展覧会のために」 進士美保子 キャンバス 油彩 SM 娘、絵里子がモデル。 この絵、あまり人目にふれてなくて可愛そうなので、皆さまに見て頂きたくて。 それはそれとして。小中学校の同級生よりTELあり。話しに花が咲く。 あれしよう、これしようと毎日意気込むけど、カラダがついていかないのよネー、と二人で盛りあがる。 彼女、夜中のお手洗いは、はって行くとのこと。転ぶとあぶないですものね。 そう言えば私、結婚してから、いろんな病気したなあ。 結婚する際、夫に、私の母が、「この子は何のとりえもありませんが、赤ちゃんコンクールで群馬県第一位になって読売新聞にもでたんですよ」(楯と記念品のアルバムもある。)それから「中学校では歯のコンクールに出るくらい丈夫ですから」と言ってくれたけど。 それをそのまま受けとった夫、旅行するときや外出時には自分は何も持たず、重いスーツケースやスーパーの食料品など、私は両手両肩にしょって、結構大変だった。 夫に”何故、私と結婚したの?”と問うと、いつも”重い荷物を持ってくれそうだったからだよ” と言っていた。 いまあらためて、結婚後お医者さまにかかったことを思い出すと、次のよう。 ★胃、十二指腸潰瘍・・胃カメラは結構好きです。 ★スズメバチに左足の甲を刺されゴム風船のように腫れる・・昔なので、お医者さまから前例がなくて治療法がわからないと言われる。丁度群馬から遊びにきた父母が心配して、長野の叔母にTELして聞いてくれたことを思い出す。 ★キャベツの千切りをしてるときに、左手の人さし指を包丁で切り、3針縫う。長女がお隣のご主人に知らせてくれて車で病院へつれていってもらう。その夜は夫の友達が泊。あいかわらず夫の帰宅遅し。 ★子宮筋腫・・赤ん坊の頭くらいの大きさになっていた。手術するか迷ったが、閉経まで我慢する。生理時は超、超、超、激痛。痛みで5ミリ先のものをつかむのも困難だった。 ★強度の貧血・・お正月の三が日もお医者さまのご指示で注射に通う。 ★帯状疱疹・・左腕上部から肩にかけて小水疱が群生し、激痛。お医者さまと相談し、入院しないで我慢。 ★腰の骨折・・2回。1回目はカナダで。孫を屋外で抱っこして振り回していたら、遠心力で止まらなくなり、孫を落としてはいけない、と焦って、腰から着地して強打。2回目は福井で。室内で転び、手を着いたが、何故か腰を痛めた。入院しないでコルセットで自宅安静。 ★歩行困難と尿漏れ・・福井総合病院の院長先生が整形外科のCTスキャンで、骨髄に腫瘍があるのを見つけて下さった。 その後、金沢大学病院に入院し、手術。癌が疑われたが良性だった。 ★脳出血・・救急車で運ばれて入院。その日は運良く次女がわが家に遊びに来て、おかしいときずいてくれた。私はソファーで『ある愛の詩』をBSで見ていて、同じ姿勢でずっといたので、痺れが出たのかと思っていたが、娘によると、お手洗いに行くと言ってるのに体は動かないし、そのうち何を言ってるのか言葉がわからなくなったので娘婿にTELし、アドバイスを受け救急車を呼んだらしい。大和市立病院はいっぱいだと言われ、横浜みどり病院に。 出産以外では2度の入院でしたが、病院の毎日は楽しく、明るく過ごすことができました。 絵を描いたり、お医者さまやリハビリの先生や看護師さんたちといろんなことを話したりしました。今では、こんな体験を与えて下さって幸せだなあと思ってます。それも、夫や二人の娘が何かにつけて助けてくれたからなんだと改めて感謝してます。 夫は今日、新幹線の試乗会で出掛けてます。 福井に来てからは、重い荷物、全部持ってくれます。
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「私の原風景・・・みほこの1年青組(いちねんあおぐみ)、2年青組、3年青組の絵たち」
進士美保子 Mihoko SHINJI 「私の原風景・・・みほこの1年青組(いちねんあおぐみ)、2年青組、3年青組の絵たち」 コラージュ、130cm×160cm 故郷の群馬県松井田小学校では、1年から3年まで 私、青組でした。 赤、青、黄、白組と4クラスあって、1クラス48~9人でした。 私が、クラス名に色が付いていた、と夫に申しますと、ゲラゲラ笑います。ほんとに、おかしいですかね? 私の母は、絵や作文や答案用紙など全部保存しておいてくれましたので、3年生までの私の顔や、弟、家族、妙義と浅間山、家で飼っていた鶏、名前のデザイン、案山子、麦畑、桜、私の家、模様、フランス人形、正月や運動会、天気予報、作文などをコラージュして作品にしてみました。 作文は、小学1年のときの運動会の様子を書いているのですが、今読みますと意外に面白いので紹介します。 覚えたての言葉で、一生懸命綴ったのでしょうね。 一ねんあおくみ てらさわみほこ うんどうかいのおはなし わたくしは うんどうかい が たいへんおもしろかった。 でわ おはなし を もうしあげます。 わたくしたち わ おもしろい かけっこ をしました。 せんしゅ が ぞろぞろ でてきました。 わたくしも ぞろぞろ でました。 それわ りれえ の せんし です。 わたしも かけっこ お しました。 わたし わ びり になりました。 そして わたくし わ かけっこがおわってから あめ を…



