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「変身」
進士 美保子 Mihoko SHINJI 「変身」 油彩 キャンバス 神奈川に戻ったある日、夫との散歩で懐かしい本に出会った。思わず購入。 中島 敦の「李陵・山月記」(り りょう・さんげつき、角川文庫、R.3.5発行、476円)だ。高校の授業以来だなぁ。 進士(中国、官吏の登用試験に合格した人)に登第した二人の男の物語。 一人は順調に出世して遥か高位。 もう一人は詩家としての文名が揚がらず同輩の下命を拝することで自尊心が傷つく。ついに発狂し、猛虎に変身してしまう。(今年、寅歳ですね。) 昔々、知り合ったばかりの夫に「進士」という名字について話した。生まれたときから難しい試験に受かってて良いですね、と。 結婚して遊びに来た夫の母に、ミホコさん、ちょっと変わった名字だけど大丈夫?と聞かれたことがあった。 そこで私、”大好きでーーす”と。 母はニコッとした。 そう言えばカフカの「変身」も、なんだかわからない虫に変身しちゃった物語だけど、一寸憧れちゃうなあ。私、ときどき面白いことを考えちゃう。幸齢(和田秀樹著、「80歳の壁」より、幻冬舎、990円)になったからかなあ。どうも私は子供のころから変身願望が強かったのかも。 昨日はコメダ珈琲店、今日も夫と万歩計を持って福井県立美術館まで歩く。
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「なみだぐもりの観覧車」
進士 美保子 「なみだぐもりの観覧車」 キャンバス 油彩 まち針 糸通し バッジ ストロー ゼムクリップ 仮額も自分で作製 松井田小学校2年のときの担任が”先生”だった。今年、年賀状下さらなかったので、”先生お元気ですか”とお便りしたら お嬢様からお返事頂き、お亡くなりになったことを知った。 何十年の文通〜・・・・長いお手紙頂いたり、お目にかかったり。先生が入院なさったときはお見舞いに伺ったりもした。 私の高校入学を知って「聖書」が届いた。A4の黒表紙で真紅の小口。聖書の存在は知っていたが実物を見たのは初めてだ。美しい装丁だった。このお祝いを無駄にすることなく私は、私なりに一生懸命勉強した。だから、鑑賞する絵も文学も、聖書の影響を違和感なく理解できた。先生がクリスチャンだったかどうかはわからない。 先生に頂いた福音館の童話や岩波の児童書も、私の人生になくてはならないものだった。 先生は頼れる存在のお父さんタイプでなく、いじめっこに一緒にいじめられるような・・・優しく あったかで一寸やんちゃな方だった 。 先生は私の心の中に生きている。私は誰かにそんな風に思ってもらえないだろうな。
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「真実一路」
進士 美保子 Mihoko SHINJI「真実一路」(清く正しい まことの心をもってただひとすじの道を生き抜くこと)油彩 キャンバス18×25㎝ これ カンニング? 何十年も前の松井田中学校でのこと。その日は国語のテストがあった。私、あとひとつ漢字が書ければ、全問解答というところまでこぎつけていた。まだ時間は十分にあった。でも、どうしても思い出せない。頭が真っ白になって、教室の天井や先生の教卓を眺めたりして何とか思い出そうと試みた。背が高かったからか私の席は一番後ろだった。何となく、すぐ前の子の後ろ姿を見た。次に左斜め前の子に目がいった。斜めの子、一生懸命書いていたが、消しゴムで消したあと答案用紙を立てて、消しゴムのカスをトントンと机の上に落としていた。見るともなく答案用紙が目に入り、”つつしむ”という漢字が見えた。あっ、リッシンベンに真実の真だ。頭の中の重苦しい霧が一気に晴れてスカッと陽が射したような気分。早速、”慎む”と書いて答案を提出した。・・・そして教室を後にした。時間一杯まで着席して、時間切れになったら漢字一つ空白のまま答案用紙を教卓に置けばよかったのか。未だに迷う、今も忘れられない出来事だ。 以上が私の真実です。
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「トイレに落ちたモンブランの万年筆」
進士 美保子 Mihoko SHINJI 「トイレに落ちたモンブランの万年筆」 油彩 羊羹の桐の箱の蓋 10×20㎝ 黙って私の人生を肯定してきたモンブランの万年筆。 私の父が40年以上前ヨーロッパ旅行で買い求め、夫にくれたものである。 かって、夫の勤務する大学のボットン便所に、夫のズボンの後ろポケットから落ちたもの。 夫から話しを聞き農場の先生が汲み取りの時、みつけて下さり、洗浄して我が家に届けて下さったもの。 が夫は、それを二度と使わなかった。そして、モンブランの魅力には敵わないと思ったか、新しいモンブランを購入した。 そしてこの最初の万年筆が私にまわってきた、というわけ。 これ、私の分身と言っても良いほど、長い間働いてくれている。あの出来事のおかげなので夫にはものすごく感謝している。 ウンのつきまくった万年筆。 父の思い出でもある。 先日のBSプレミアムによると 瀬戸内寂聴さんもモンブランの万年筆とインキで原稿を書いていらっしたようだ。 なお、私の2020、12、1の「トイレ讃歌」というテンペラ画でもトイレがらみのコメントを載せていますのでお笑い頂けたら幸いに存じます。
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「三木家の下宿」
「三木家の下宿」 下宿(げしゅく)とは やや長い期限を定めて他人の家に部屋住みすること。キャンバス 油彩24×24㎝ 数十年も前のこと。世田谷から練馬に下宿先を変えた私は、下宿人たち5人全員の歓迎会で迎えられた。最初は、皆で 新宿の紀伊国屋書店での映画鑑賞。紀伊国屋には劇場があった。近松門左衛門 原作「心中天網島」だ。篠田正浩監督、中村吉右衛門・岩下志麻主演。吉右衛門さんを その映画で初めて知り、黒子の登場など浄瑠璃と歌舞伎の雰囲気が色濃く出た素晴らしい作品だったので深く印象に残った。主演のお二人は本当に美しく、確固たる存在感があった。帰りはレストランで当時は珍しかったピザをご馳走になった。暖かいもてなしから始まって その後も大家の三木さん初め若者同士助け合って仲良く過ごした。下宿でご一緒だった皆さまはお元気なのかしら。そして 中村吉右衛門さんの御冥福をお祈り致します。
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「ゆうすげびと」
進士 美保子 Mihoko SHINJI 「ゆうすげびと」 油彩・SM / 2012年 夕菅(ゆうすげ)はユリ科の一日花。 夕方開いて翌日の午前中にしぼむ。キスゲ。 “ゆうすげ”のすぐにしぼんでしまって儚いところと、私の松井田小学校6年の東京修学旅行の思い出・・思い出そうとしても、時をおかずに記憶の扉を閉ざしてしまう不確かなところは、どこか通じるような気がします。 絵でタワーを描きましたが、今も家にある、おみやげで買った5cm程の金属製東京タワーの小物を見ても、本当に行ったのかどうか思い出せないのです。でも東京タワーが大好きなのは修学旅行で訪れたからに違いないとも思うのです。 遠い遠い修学旅行の思い出と一緒に、私の一番好きな立原道造の詩をタイトルにした油絵「ゆうすげびと」、お気に召して頂ければうれしいです。 あっ!!今、衆議院議員総選挙の投票所入場整理券が届きました。ずいぶんギリギリです。 皆さま10月27日の投票、忘れずに!
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「アップサイクル キッチン」
進士 美保子 Mihoko SHINJI 「アップサイクル キッチン」 15㎝×22、5㎝ 素材 ・コメダ珈琲店 カツパンのプラスチック 容器 ・雪印6pチーズのラベル ・金ちゃんヌードル カップ麺の現金1万 円プレゼント応募券 ・北海道恵庭の知人から頂いたエリーナ メロンの品質ラベル ・梱包用プラスチック 切り抜いて目に 色紙黒を丸めて目玉に ・100円ショップで購入のタッセル ク リップ(耳)と リーン クリップ(鼻) ・カツパン用のプラスチックが くくって あった輪ゴム(黄色は眉毛、紅色は唇) ・油性マーカー ・セロテープ 作品名に注目。 みなさま ご存知でしょうが、新聞紙をリサイクルしてトイレットペーパーに、そして水に流してしまうのが ダウンサイクル。ところが おもしろいアイデア、デザインを加えて付加価値をつけるのが「アップサイクル」です。 私の作品に価値があるかわかりませんが、今日の気持ちはアップ、アップ(笑)。 キッチンがらみの表現なので「アップサイクルキッチン」と題してみました。 私の台所風景 のぞいてみてください。
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「私の人生に猫はいなかった」
進士 美保子 Mihoko SHINJI 「私の人生に猫はいなかった」 キャンバス 油彩 F30 額も自身で作製 令和3(2021)年8月13日の金曜日。 暗い絵でゴメンナサイ。 今日はお盆なので亡き弟の思い出を記します。 私の弟は46歳で他界。虚血性心疾患で突然に。私とは3つ違いだった。 かって亡き父の法事で高崎の実家を訪れたとき、畳の部屋でビデオを見せてくれたことがあった。畳の光景が鮮明に記憶に残っている。 弟が私に「お姉ちゃん、オレの一番好きな映画観てくれる?」と。 夫と私は、弟と『E.T.』を観た。 ・・・・・・・・ 松井田にいるときは町中の人気者だった。 私の可愛い弟。邦英。 クンボ クンボ と呼ばれてみんなに可愛いがられていた。 小学校時代、リヤカーに足をはさまれたとき、 “クンボが大変だーーー”と町中が大騒ぎした。 当時では珍しいおもちゃの電動ロボットが 我が家に登場したときはこわがって泣いていた。私など何とも思わないのに。 父の仕事の関係もあって高崎に引っ越した後、中学校での弟は人が変わったようになってしまった。 転校して、高崎の同級生にいじめられて、松井田時代には経験しなかった辛いことがあったのだ。 弟の中では小学生の頃の暖かい松井田が、 いつも思い出されていたのだと思う。 やさしくて純粋だった弟。 だから『E.T.』が好きだったのだろう。 そして、短い生涯を終えてしまった。 新婚の頃、 大学生の弟が我が家に遊びに来た。 丁度遊びに来ていた夫の母が、”美保子さん、 弟さん、なんてイイ男なんでしょう”と誉めてくれた。こんなことメモして気恥ずかしいけど、母が弟をほめてくれてホント嬉しかった(ので)。 油絵で一言。 子どもの頃飼ったことがあるのは亀と鶏だけ。 母が嫌いだったので何も飼えなかった。 結婚し、申年の夫が犬猿の仲だからとか言って 犬や猫が家族の一員になることはなかった。 わたしの猫は、油絵の門柱の脇にいます。猫の影は男のひとになっています。
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「或る建築」
進士 美保子 Mihoko SHINJI 「或る建築」 キャンバス・油彩 S S M 7月23日から東京オリ・パラが始まる。 前回の東京オリンピックの1964年10月。 千駄ヶ谷の東京体育館(旧東京都体育館)に 東京オリンピック女子体操競技を見に行く。 当時 私は 高校2年生。 早稲田大学在学中だった兄が チケットを購入してくれていたので、 兄の待つ上野駅へ高崎から上京したのだ。 その前日、クラス担任に、明日、東京オリンピックを見に行くので授業お休みさせて下さいと 申し出たが、先生は一言もない。 ダメダヨとか、イイナアとか どちらもおっしゃらない。 いまでも私は、先生のお顔をはっきり覚えている。 丹下健三の代々木体育館を見て 建築家を志したという話をよくきくが、 槇文彦先生設計の東京体育館も 私には印象深い。 この日までの私の東京は、小学6年の修学旅行と、父に連れられて行った浅草国際劇場の SKDだけだった。 そして この日 強く強く 私の心をとらえたのは 女子床体操のベラ・チャスラフスカだった。 金メダルをとったチャスラフスカは(当時22歳のはずが、)ものすごく大人っぽくて、 意志のはっきりした強い女性にみえた。 ほんとうに近い席で チャスラフスカの顔も、しなやかな身体も はっきりと見えた。 いまは故人のチャスラフスカは、 旧チェコスロバキアのプラハ出身。 民主化運動の「プラハの春」を支持し、 メキシコ五輪後も反体制の姿勢を崩さなかったため政府の監視下に置かれて不遇な時期を過ごしたらしい。89年の共産党政権崩壊後は チェコ・オリンピック委員会会長などを務め 同国のスポーツ発展に尽力したとのこと。 チャスラフスカを見て私は思った。 女性の地位が低かった時代。 きりっとして将来をみすえている彼女は 素晴らしい女性だ。 実に尊敬に値する。 ほんとうに そう思ったのだ。
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「呻吟する手」
進士 美保子 Mihoko SHINJI 「呻吟する手」 キャンバス・油彩、クレヨン M20号 母親の手の指は何本あってもよい。 すべて、子供と手をつなぐためにある。 でも母の娘だった私は・・・。 あれは桜吹雪が舞う暖かい日。 琴平さまの帰り道だった。 小学1、2年の頃。 和装の母と手を繋ごうと、私は 右手で母の手を探し求めた。 ようやく さぐりあてて 母と手をつなごうとすると・・・。 イヤな子だねえ、といって 私の手をふり払った。 その出来事は何十年経った今も、 忘れることができない。 その後も私は母に抱きしめてもらったことも 手をつないでもらったこともない気がする。 母は女学校出て直ぐ、18歳で結婚したので まだ娘気分が抜け切れていなかったのかも知れない。 母は私に習いごとをいろいろさせたり、 勉強をみたり、 洋服も洋服屋さんで全て誂えてくれた。 幼稚園や小学校遠足のお弁当もハイカラなものでありがたかった。 私が結婚して、二人の娘の出産時には高崎に 帰省して世話になったり、心配事の相談に のってもらったり、心から感謝している。 父の死後、母が歳をとってからは私と手をつないでスーパーで買い物したり、腕を組んでお芝居見物に出かけたりした。 “お父ちゃん 手ーーー!!” “オー!!” 今は夫が手をさしのべてくれて いつでも私の手を握ってくれる。
